尾瀬の風の中で


『夏が来れば思い出す 遥かな尾瀬 遠い空……』
優しいメロディが印象的な唱歌「夏の思い出」にも登場する尾瀬は、標高2,000m級の山々に囲まれた、湿原、湖沼、森林など変化に富んだ地形が広がる広大な地。色とりどりの高山植物や様々な小鳥たちのさえずり、豊かな自然をたたえる楽園で、訪れる人々の心を優しく包み込んでくれる。

初秋の尾瀬、草紅葉の中に一組の恋人同士の姿があった。
二人が尾瀬の草紅葉を見にきたのは今回が2回目だった。

「またここに連れてきてくれてありがとう。私、去年初めてここに連れてきてもらってから、ここの紅葉が大好きになったわ。なんか、すごく心が安らげるの」
彼女は優しく、そして生き生きとした表情で彼に話していた。

「尾瀬は秋の草紅葉だけじゃなくて、春や夏に訪れてもとてもいいところなんだよ。
今度は違う季節の時に一緒にきてみよう」
彼もまた彼女と同じように優しい表情で応えていた。

草紅葉の中を歩いているときに、ふと彼女のいたずら心が顔をのぞかせた。
「ねえ、もしも……もしもよ、私たちが何かの理由で別れてしまったとするわね。それがお互いが嫌いになって別れたのではなかったら、次に出会ったときにはきちんと挨拶しましょうね」
「うん、そうしよう」
男は彼女の言葉に短く応えて、遠くの山々を見つめていた。
それは幸せの中にいる二人にとって、ほんのささいな冗談話だったが、そんなことも尾瀬の自然の中で二人の心の中からはいつしか消え失せていた。

数年後、彼女は別の男と結婚することとなった。
結婚式の招待状はその男にも送られていたが、彼女が結婚式を行う教会に彼の姿はなかった。

『やっぱりあの人は来なかったわね……』
父親にエスコートされてバージンロードを歩きながら、彼女はそう心の中でつぶやいていた。しかし、そう思っていた彼女の表情はとても優しく微笑んでいた。

ちょうどその頃、その男の姿は尾瀬の草紅葉の中にあった。
彼は草紅葉の中をゆっくりと歩きながら、時折尾瀬の自然に向かってカメラのシャッターをきっていた。その時の彼の表情はとても優しげで、穏やかだった。

結婚式から数日後、彼女の元に一通の手紙が届いた。
それはその男からのお祝いのメッセージだった。そして手紙には豊かな自然をたたえる尾瀬の様々な表情が同封されていた。
それを見た彼女の心は、あの日彼と一緒に訪れた尾瀬の自然の中にいるときと同じように、とても安らいでいた。

 

[ Previous ] .............................. [ Back ] .............................. [ Next ]